本サービス内ではアフィリエイト広告を利用しています
店舗や施設の営業状況やサービス内容が変更となっている場合がありますので、各店舗・施設の最新の公式情報をご確認ください。
そのため八甲田山には多くのスキー場があり、冬になるとスキーやスキー登山をする人で賑わいます。しかも八甲田山周辺の雪の状態がとてもよく、パウダースノーが楽しめるスキー場が多いことでも有名です。
例えば秋の紅葉シーズンには紅葉見物客で賑わう八甲田ロープウェーも、冬になるとスキー場になりスキー登山が楽しめる人気スポットになります。
しかも八甲田ロープウェースキー場は、国内では珍しいほぼ全面不圧雪のスキー場です。そのためスキーシーズンには多くのスキー客で賑わいますし、シーズン終盤の3月頃でもパウダースノーの中でスキー登山を楽しむことができます。
映画のモデルにもなっている
八甲田山は日本映画の名作「八甲田山」のモデルにもなっています。映画「八甲田山」は、直木賞作家である新田次郎氏の原作「八甲田山死の彷徨」を映画化した作品です。
主人公の徳島大尉に高倉健、もう一人の主人公である神田大尉に北大路欣也をおき、さらに三国廉太郎、加山雄三、丹波哲郎、大滝秀治、小林桂樹、加賀まりこ、秋吉久美子など豪華キャストによって撮影され映画「八甲田山」は大ヒットを記録しました。
日本が満州進出を目前としていた頃、八甲田山での軍の極寒対策・雪中行軍演習中に起こった悲劇がテーマの作品だったため、映画の撮影も作品のモデルとなった八甲田山で行われました。そのため映画ファンにとって八甲田山は、名作が誕生した地でもあります。
冬季登山の教訓に
冬山登山の恐ろしさを多くの人に伝えるきっかけとなったのが、映画「八甲田山」でした。映画「八甲田山」は、1902年(明治35年)に実際に起こった「八甲田雪中行軍遭難事件」を題材にしています。
事件名には「遭難事件」とありますが、実際には参加者210名うち死者は199名で、死亡者の中には救出後に死亡した6名も含まれます。映画では人と組織のあり方に焦点があてられましたが、実際に起きた事件は冬山登山に警鐘をうながすきっかけになりました。
この事件は、雪山登山に対する知識・経験の不足と冬山登山としての装備不足が原因で起こりました。八甲田山雪中行軍は、満州侵攻を前に極寒対策と装備の研究調査として日本軍司令部が実施したのですが、冬山登山経験者がいなかったことが悲劇につながります。
雪中行軍に出発する日本軍に対して、冬登山の恐ろしさを知っている八甲田山の地元住民は中止を進言します。また中止ができないのであれば案内をしてもよいとの申し出もしましたが、村民の申し出をすべて拒否した司令部は地図と方位磁針のみで行軍を強行します。
当初の予定では3日間の行軍予定でしたが、初日から物資輸送のためのソリ部隊が徐々に本体から遅れ初め、調整のために予定外の大休止をとっているあいだに山の天候が急変します。
この時に行軍の中止と帰営を提案する声もでましたが、結局そのまま続行となり、遅れの原因となったソリを捨て荷物を背負って行軍することになります。その後も天候はますます悪化しやむなく露営しますが、火をおこすこともままならず食事もとれません。
1日目の露営地を出発しても状況は変わらず、しかも道に迷ってしまったことで軍の士気は下がります。すでにこの頃には凍傷者も続出し、不眠不休に絶食が続いたため凍死する者も出てきます。
さらに持っていた方位磁針は寒さで使いものにならず、土地勘のないまま地図を片手に雪山をさまよいます。この頃には死者は70名を超え、精神に異常をきたし発狂する者もでてきます。
兵の半分以上が死んでしまった後も雪山の中をさ迷い歩くしかない一行でしたが、隊が突然解散となり、各自で帰路を見つけ下山するよう命令が出るとさらなる惨劇がおこります。零下20℃の中をさまよう兵の中には幻覚を見て崖に飛び込み死亡した兵もいました。
結果として陣営に戻ることができたのは、救助された者も含めわずか6人しかいませんでした。しかも救助された6人のうち、4人はその後死亡しました。
冬山登山に対するあまりにも無謀な計画と知識・経験のなさ、さらにお粗末ともいえる未熟な冬山装備のせいで参加した隊員のほぼ全員が死亡したこの事故は、その後、日本だけでなく世界においても冬山登山の教訓となりました。
八甲田山登山におすすめの季節は?
八甲田山では積雪がない時期は通常の登山、山が雪に覆われる冬はスキー登山と1年を通して楽しむことができます。ただし冬登山は八甲田山で起きた悲惨な死亡事故の教訓をもとに厳しい規制があるため、専用の装備がなければ登山することができません。
でも雪が降る前の八甲田山は、高山植物や紅葉などを見ながら登山を楽しむことができます。そこで初心者でも八甲田山登山を楽しむことができるおすすめの時期を紹介します。