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こうした内容からは小倉祇園太鼓は博多山笠、戸畑の祇園祭とともに福岡三大祇園祭と呼ばれています。「重要無形民俗文化財」に選ばれた小倉祇園太鼓は珍しい太鼓の打ち方だけではなく、そうした伝統を子どもたちに伝え、人としてのあり方を祭りの精神を通して伝承しているのです。
「小倉祇園太鼓」の歴史を知ろう
1618年、豊前国小倉藩主だった細川忠興は干ばつ、疫病や水害で疲弊した豊前国と庶民の生活をなんとかしようと、家宝を売り払い被害者救済に当てたと言われています。
その際に自ら八坂神社にお参りに詣でたところ平穏が訪れたことから、京都の祇園祭を模して盛大な祭りを始めたのが小倉祇園太鼓のルーツなのです。内容的にも京都の雅で厳かな祇園祭を小倉の地で再現したかったのではないでしょうか。
藩主が小笠原家に変わってからも祇園祭は引き継がれ、太鼓を打つようになったのは小笠原忠雄が藩主であった万治3年(1650年)で江戸神田祭や山王祭を参考に地元の少年たちに教えたのが始まりとされています。
「関の先帝、小倉の祇園、雨が降らねば金がふる」と古くから言われるとおり、下関の先帝祭や小倉祇園太鼓は雨に見舞われることが多いのが特徴です。
そうした中にあっても小倉祇園太鼓の期間中は昔から人が多く集まり、お賽銭は山のようになっていたと言われています。商売繁盛を願う市民の熱い思いが小倉祇園太鼓には当時から込められているのです。
無病息災を祈るお祭り
旧暦6月に行われてきた小倉祇園太鼓は小倉城を築城した細川忠興が無病息災を祈り、城下町繁栄を願い1619年に小倉の地に取り入れたもので、まさに京の都の祇園祭をそのまま持って来たような雰囲気だったことでしょう。
当時は飢饉や水害、干ばつなど天変地異のために農作物が被害に遭い、人々は疲弊した生活を送っていました。その姿を見た忠興は八坂神社をお参りしたことで平穏な生活を送れるようになった庶民の様子を見て京都の祇園祭を小倉の地に取り入れたのです。
1660年に太鼓が登場
小倉祇園太鼓は古くは鉦と鼓、笛を使ったと記録に残っています。1660年(万治3年)に書かれた「祇園会神事神山次第」の内容を見ると「囃方清五郎が藩主のお供をして江戸表に上り、山王神事の囃し方を聞き覚え、小倉に帰国後、子供四人を集め、教授せしが始め也」と記されています。
つまりこの時代に小倉祇園太鼓が現在に近い形として出来上がり「天下祭」と呼ばれた赤坂山王権現「山王祭」のお囃子が加わったものが現在の祭の原型になったというわけです。今も昔も貴重な伝統文化を子どもたちに末長く伝える様子は時代が変わっても同じなのです。
2019年に400周年を迎えた
博多の追い山祇園、戸畑祇園大山笠と並んで福岡三大祇園の一つ小倉祇園太鼓は2019年に400周年を迎えました。2019年3月には全国で初めて太鼓芸で国の重要無形民俗文化財にしてされ、「無病息災」「商売繁盛」を祈願して盛大に「小倉祇園太鼓競演大会」が開催されました。
小倉祇園太鼓の最終日を飾る打ち納め祭事「廻り祇園」は内容的にも毎年最大の見せ場です。毎年全長約550mの会場を山車約70台、約4000人が集まり、提灯にあかりを灯して街中を練り歩く姿は勇壮です。
「小倉祇園太鼓」毎年恒例のお祭りの内容をご紹介
毎年全国各地から約30万人以上が訪れる小倉祇園太鼓ですが6月も終わりに近づくと小倉の街のあちらこちらから太鼓の音が聞こえてきます。毎年この時期になると各町内で祇園太鼓の練習を行っているのです。太鼓の音と共に祇園の夏が訪れます。
小倉祇園太鼓の最大の催しでもある太鼓競演が行われます。小倉城前の大手門広場で開かれ迫力ある演技が繰り広げられます。内容としては町内会では大人組、少年組、企業や学校で作る一般組に分かれて競い合うのです。