天草の歴史情緒あふれる世界遺産をご紹介!潜伏キリシタンの﨑津集落って?

天草の歴史情緒あふれる世界遺産をご紹介!潜伏キリシタンの﨑津集落って?

日本の主な宗教は古くから仏教ですが、熊本県の天草地方では、キリスト教を信仰する人々が隠れていたとされる集落があります。現在では世界遺産に登録されている天草で、歴史情緒溢れる美しい場所です。世界遺産に登録されるまでの天草の歴史を紐解いていきましょう。

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    記事の目次

    1. 1.天草の世界遺産は遠出してでも見学したい観光スポット
    2. 2.「世界遺産」とは?
    3. 3.近年に登録された天草の世界遺産はどこ?
    4. 4.長崎と天草地方の世界遺産・集落
    5. 5.長崎と天草地方の世界遺産・城跡
    6. 6.長崎と天草地方の世界遺産・島の集落
    7. 7.長崎と天草地方の世界遺産・教会
    8. 8.天草の世界遺産見学ならツアーがおすすめ
    9. 9.天草観光で「世界遺産」をじっくり巡ろう!

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    しかし、馬よりも田畑の必要性が増したため廃止します。平戸藩は牧場の跡地を再開発するために、外海などの他の地域から開拓民を移住させたため、潜伏キリシタンが多く移住しました。

    潜伏キリシタンは共同体維持を目的をし、7つある集落のうち6つが潜伏キリシタンの集落でした。黒島の潜伏キリシタンも表立っては仏教に属し、マリア観音と呼ばれる聖母マリア像を祈りの対象としていました。

    黒島の興禅寺にマリア観音は置かれていたといわれています。禁教令廃止後、黒島にもキリスト教信者たちが力を合わせて協会である黒島天主堂を建てました。

    住所 長崎県佐世保市黒島町
    電話番号 095-823-7650(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター)

    野崎島の集落跡

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    長崎県の野崎島は古くから沖ノ嶋神社があり、海の守り神として信仰していました。まら、神道の霊地として神聖な場所だったため、一般の人が生活をしてもよい場所ではありませんでした。19世紀に入っても、野崎島には一ヵ所しか集落がありませんでした。

    その一ヵ所だった場所が「野崎島の集落」です。19世紀中ごろになり、ようやく外海地域などから人々が移住をします。この時、潜伏キリシタンの多くも移住をしたため、野崎島の集落で潜伏キリシタンが増えた要因となります。

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    潜伏キリシタンが増え、島の中腹に野首集落、島の一番下に稲森集落ができます。潜伏キリシタン達は共同体を守るために、表向きは沖ノ嶋神社の氏子になり、仏教徒を装い、密かにキリスト教を信仰していました。

    現在観光地となっている潜伏キリシタンの墓地などは、通常の人とは反対に埋葬されていたそうです。教禁令が廃止されてから野崎島に建った教会は、現在で3つめの教会で、旧野首教会になります。

    野首教会が外観は洋風ですが、教会内部は美しい曲線を出すために、竹や縄で骨組みを造り、土で固めて漆喰を塗る作業がされており、西洋文化と日本文化の絶妙な調合に、繊細な組み合わせを見ることができます。

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    世界遺産に含まれている教会なので、一度に多くの人数が入ることができない場合もあります。アクセスされる際は事前に、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンターへお問い合わせをして下さい。

    住所 長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷
    電話番号 095-823-7650(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター)

    久賀島の集落

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    日本から中国大陸への貿易船の航路上にあったのが、長崎県の久賀島です。五島藩が治めていた場所でした。16世紀後半から17世紀にかけて、キリスト教が伝わっていたとされますが、教禁令により、一旦途絶えます。

    18世紀には仏教集落のみの島とされていましたが、18世紀の終わりに、五島藩の開拓移民政策で、外海地域から多くの潜伏キリシタンが移住します。これによって「久賀島の集落」が出来ます。

    仏教集落が多かったため、潜伏キリシタンは離れた場所に潜伏キリシタン集落を作りましたが、潜伏キリシタンのみで未開地を開拓し、農耕作をするのは大変厳しい状況でした。

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    生活をするために潜伏キリシタン達は、仏教集落の人々と力を合わせて田畑に漁業など、未開地を開拓し、共同体を守る生活を送っていました。

    しかし、1868年、洗礼を受けた信者が信仰を明らかにしたところ、約200人が捕縛されたのち、6坪ほどの牢屋に200人余を8ヵ月間閉じ込め、朝夕に一片のサツマイモしか与えなかったため、子どもを含む多くの人が亡くなるという残念な出来事が起こります。

    この凄惨な出来事は、宣教師として来日していたプティジャン神父によって本国のフランスに伝わり、キリシタン弾圧は外交問題にまで発展しました。こうして、1873年にはキリシタン禁制の高札が撤去され、日本に宗教の自由が訪れたのです。

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    牢屋の窄(ろうやのさこ)の跡地には、現在は殉教記念教会が建てられています。日本の宗教の自由を開く鍵となった出来事は、久賀島での出来事だったのです。他にも久賀島には、瓦葺木造ですが、リブ・ヴォールト天井がある木造教会も観光名所として人気です。

    住所 長崎県五島市蕨町
    電話番号 095-823-7650(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター) 

    長崎と天草地方の世界遺産・教会

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    長崎と天草地方の世界遺産には、教禁令廃止後に、天草の﨑津集落をはじめとする、ほぼ全部の場所に、潜伏キリシタンだった人々によって教会が建てられています。

    建てられている教会の多くは、西洋文化のみの技術だけで造られているわけでなく、日本独自の建築構造も取り入れられており、美しく繊細な建物になっています。

    決してアクセスしやす場所にあるわけではありませんが、日本に存在する世界遺産で一度は見たい文化遺産のうちのひとつです。有名な観光スポットにはなっていますが、教会は神聖な場所になるので、マナーを守って訪れましょう。

    大浦天主堂

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    1570年当初、長崎県は諸外国との貿易の窓口として栄えていました。10以上の教会が建っち並んでおり、町並みは小ローマといわれた程でした。その後、教禁令が出され多くの教会は取り壊され、信者も棄教しましたが、残った教会は潜伏キリシタンの大きな支えとなっていました。

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