本サービス内ではアフィリエイト広告を利用しています
店舗や施設の営業状況やサービス内容が変更となっている場合がありますので、各店舗・施設の最新の公式情報をご確認ください。
博多は神社仏閣の多い街
博多は神社仏閣が多い町で古くから博多の商人と神社には深い関わりがありました。戦国時代や日宋貿易が行われていた時には、お寺や神社なども貿易などの商業行為をしており、博多の商人たちと近い関係性を築いていました。
古くから、博多の商人と神社には密接な関係があり、関係性を証明するかのように博多を代表する商人の屋敷跡には、神社が創建されていたり、商人の屋敷の一部を神社に移築されたりしています。
博多は商人による自治の街
博多は、福岡市の那珂川右岸に位置する九州一の商業中心地区です。古来では、「那津(なのつ)」と言われており「魏志倭人伝」で知られている奴国の港であったと考えられている場所です。
15世紀には進出してきた大内氏が対明貿易を推進したことにより、貿易・商業の都市として発達しました。堺と並んで自治権を取得した博多商人の基礎が築かれるようになりました。
戦国時代の戦乱により、一度博多の街は焼け野が原となりましたが、1587年に九州入りした豊臣秀吉により博多の復興が着手されたことにより、現在の博多地区の原形が完成し再度商人の町として発展を始めました。
「博多の三傑」とは
博多の三傑とは、戦国時代から江戸時代初期にかけて富を得ていた博多の豪商、島井宗室・神屋宗湛・大賀宗伯の3名のことを言います。
島井宗室は、戦国時代から江戸時代の初期にかけての商人・茶人です。島井家は、昔から酒屋や金融業を営んでおり、大内氏が東シナ海の貿易を独占し始めると明や李氏朝鮮とも日朝貿易を開始し巨万の富を築いていました。
織田信長の死後は、豊臣秀吉の保護を受けて畿内から博多・対馬まで交通路を作り上げ南蛮・朝鮮と貿易品の取引を行うようになりました。
大賀宗九は、戦国時代から江戸時代初期に富を得た博多の商人です。子孫は代々、福岡藩黒田家の国元御用商人を務めるほどにまで地位を確立させていきました。
神屋宗湛は、戦国時代から江戸時代前期にかけて富を築いた博多の商人・茶人です。1587年、天下人となった豊臣秀吉に謁見した際には、他の堺や大和の豪商らがいる中で最上席に座り、豊臣秀吉に「筑紫の坊主」と呼ばれるほど気に入られました。