名古屋城の城主は尾張徳川家が務めていた!その歴史をたっぷりとご紹介

名古屋城の城主は尾張徳川家が務めていた!その歴史をたっぷりとご紹介

名古屋城の城主は尾張徳川家が務めていたのをご存知ですか?金のシャチホコで有名な「名古屋城」は今も昔も人々を魅了しています。そんな名古屋城の歴史を城主だった尾張徳川家の繋がりとともに掘り下げ、金のシャチホコだけではない、名古屋城の魅力をたっぷりご紹介します。

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    記事の目次

    1. 1.名古屋城はどこにあるの?
    2. 2.名古屋城の築城はいつ?城主は誰?
    3. 3.戦国時代の名古屋城の歴史と城主の移り変わり
    4. 4.徳川家康が名古屋城を築城
    5. 5.尾張徳川家の城として名古屋城は有名に
    6. 6.戦争によって燃えた名古屋城
    7. 7.名古屋城は様々な城主と歴史を刻む

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    名古屋城はどこにあるの?

    Photo by km058

    名古屋で一番有名な観光スポットで、名古屋の歴史を肌で感じることができる場所の「名古屋城」は、名城線 「市役所」を下車し、7番出口から徒歩5分の場所にあります。JR名古屋駅からは電車で約15分と便利な位置にあります。

    市バスを利用する場合は、栄13号系統(栄~安井町西)「名古屋城正門前」下車すぐ、なごや観光ルートバス「メーグル」では「名古屋城」下車すぐです。「名古屋城東・市役所」からは下車徒歩6分です。他、基幹2号系統「市役所」下車徒歩5分です。

    名鉄線を利用の場合は、瀬戸線「東大手」から徒歩15分です。お車でお越しの際は、名古屋高速1号楠線「黒川」 出口から約8分、名古屋高速都心環状線「丸の内」出口から約5分です。

    名古屋市中区

    Photo by MIKI Yoshihito. (#mikiyoshihito)

    「名古屋城」の周辺には、金シャチ横丁や名古屋能楽堂、名城公園、徳川園、徳川美術館、健中寺、名古屋東照宮、那古野神社など、名古屋城と共に歴史を感じることができるスポットが沢山あります。名古屋城にお越しの際は、名古屋市中区で存分に歴史に浸ってみてください。

    「名古屋城」があるのは、名古屋市中区です。名古屋城の近隣は賑やかな商業地区で夜の繁華街や、栄にあるテレビ塔は人気観光スポットです。

    春の名城公園は、名古屋城と桜の美しい景色が、絶景写真スポットにもなっています。美しく咲く桜と、歴史を背負って堂々と経っている名古屋城は、昔の人々と同じ光景を見ているのかと、感慨深くなるでしょう。誰もが時代をタイムスリップした気分になれる場所です。

    金のしゃちほこが有名!

    Photo by dreamcat115

    名古屋城といえば、誰もが「金のしゃちほこ」のお城というイメージを持っているのではないでしょうか?「金のしゃちほこ」は、名古屋城の目印とも言われており、全国的にみてもあまり見ることの出来ない珍しいものです。

    「金のしゃちほこ」は、ほかに「金鯱」や「きんこ」とも呼ばれています。その名の通り、容姿は金色に施されている「しゃちほこ」で、本丸御殿の屋根に雄雌の対で2体飾られています。

    「金のしゃちほこ」を初めて見る方はその大きさに驚くことでしょう。現在の大きさは雄2.62mで雌2.57mです。1612年(慶長17年)に名古屋城天守が竣工した当時の「金のしゃちほこ」の大きさは、純金にして215.3kgの金が使用されていたそうです。高さは雄雌共に約2.74mでした。

    金のしゃちほこの意味

    Photo by km058

    そもそも、なぜ名古屋城には「金のしゃちほこ」があるでしょうか。なぜ、金色を選んだのでしょうか。誰が何のために金にしたのか、「金のしゃちほこ」について更に掘り下げていきます。

    「しゃちほこ」は現実には存在しない架空の生き物で、頭部は虎、体は魚の形をしています。昔、建物が火事の際に水を噴き出して火を消すと言い伝えられていたことから「しゃちほこ」は、建物の守神とされています。

    名古屋城の「金のしゃちほこ」は、名古屋城を築城したと言われる徳川家康が自らの財政力や権力を表に見せしめるために、しゃちほこを金にしたと言われています。日本のお城では織田信長の安土城天守が初めて金のしゃちほこを飾ったという歴史があります。

    権力と金のしゃちほこ

    Photo bySinnesReich

    今でも「金のしゃちほこ」を一目見るだけで、誰もが徳川家康の財政力を感じるような迫力があります。当時から、誰にも簡単に倒されない、入れさせないような力を持っていたことが「金のしゃちほこ」から捉えることができます。

    金のしゃちほこの実物大

    Photo by atgw

    名古屋城の本丸御殿に飾られている「金のしゃちほこ」は、そのサイズが大きいとは言え、目視ではなかなかその大きさを実感することができません。そこで名古屋城敷地内には、実物大を目の前に見ることが出来るレプリカがあります。

    「金のしゃちほこ」の前では、記念写真を撮ることもできると観光客に人気のスポットです。名古屋城を訪れた際には、ぜひ記念に一枚写真を撮ってみてはいかがでしょうか?

    名古屋城の築城はいつ?城主は誰?

    Photo by *0* PrincessCCCC

    金のしゃちほこで有名な「名古屋城」の築城は何年で、城主は誰なのでしょうか?あまり知られていない名古屋城の歴史と誰が城主なのか、掘り下げてみます。

    以前は那古野城と呼ばれる

    Photo by reikow101277

    名古屋城のもともとの名前と、誰が城主なのかをご紹介します。名古屋城はもともと、戦国時代に尾張国愛知郡那古野、現在の愛知県名古屋市中区にあった日本の城で、「那古野城」の跡地に建てられています。

    室町時代の城主は今川氏一族

    Photo bymarcelokato

    今川氏は日本の武家で、家系は清和源氏のひとつで河内源氏の流れで足利氏御一家、吉野家の分家にあたります。今川氏の時代にはこの城の城主は氏親の一族で、那古野氏の家督を継いだとも一説あります。その人物は、今川氏豊という人物だったと言います。

    那古野城の城主は鎌倉時代後期から室町時代にかけて、名古屋台地北部の那古野の地(現在の名古屋)を領有していた「今川氏一族」です。那古野城は大永年間(1521~1524年)に城築したとされ、約30年存在したお城です。

    戦国時代の名古屋城の歴史と城主の移り変わり

    Photo by cotaro70s

    次に掘り下げていきたい名古屋城の歴史は、「戦国時代の名古屋城の歴史と城主の移り変わり」です。

    何度も再建され、どの時代に誰が城主となったかわからないほどの、数多くの城主の移り変わりからもその歴史は想像以上に長いものだと分かります。名古屋城が今の形になるまでに、どのような深い歴史と城主の入れ替わりがあったのでしょうか。

    今川氏築城の那古野城が廃墟した後、織田信長の父、織田信秀が城主となり、その約半世紀後には那古野城の跡周辺に徳川家康が名古屋城を築城し、徳川家が城主となった経緯を詳しくご紹介します。

    一時は織田信長が城主に

    Photo by km058

    まず、掘り下げて生きたのは誰が初代城主なのか?です。多くの歴史とともに生き残った名古屋城は、主に徳川御三家である尾張徳川家が管理していたと言われておりますが、その歴史のなかで初代の城主は、織田信長の父、織田信秀だったという歴史があります。

    織田信長の父である織田信秀が、柳ノ丸を奪取し、後の名古屋城を那古野城と名を改め初代城主となり、那古野城で息子である織田信長が誕生したと言われています。名古屋城は織田信長生誕の地ということになります。

    その後、織田信秀は天文15年(1546年)頃、古渡城(現在の名古屋市中区)を築いて居所を移すと、若かりし頃の織田信長に那古野城を譲り、織田信長は那古野城の城主となりました。

    1582年廃城に

    Photo by km058

    織田信長が弘治元年(1555年)当時、尾張の中心だった清州城に移ると、織田信長の叔父である織田信光が城主となりました。織田信光が死去すると、那古野城は重臣である林秀貞(ひでさだ)が城主となり、天正10年(1582年)に廃城しました。

    ここまでで那古野城(現在の名古屋城)の城主は、今川氏から、織田信秀、織田信長、織田信光、そして林秀貞(ひでさだ)の5人の城主と共に歴史を刻んでいました。

    徳川家康が名古屋城を築城

    Photo by km058

    那古野城は現在の名古屋城になるまでにも多くの歴史と、5人の城主と共に生きてきたお城ですが、その後名前を「名古屋城」とし尾張徳川家と共に更に多くの城主と共に歴史を刻んできました。

    約400年前、征夷大将軍徳川家康が命をかけて築城されたのが、名古屋城です。「名古屋城」は、明治維新まで徳川御三家のひとつ、尾張徳川家が城主でした。徳川家康がはじめて将軍職に任じられた慶長8年(1603年3月24日)に江戸幕府が始まってから、名古屋城の歴史は間も無く始まりました。

    築城は明治維新から遡って、慶長14年(1609年)です。そして工事を加藤清正をはじめとした大名約20名に命じ、翌年の慶長15年(1610年)には工事が開始されました。築城を決めてから、1年も経たずに工事を始めたのも、江戸幕府初代将軍徳川家康の当時の力を感じることができます。

    名古屋城を築城した理由

    Photo by km058

    織田信長が那古野城を出てその後50年経った1609年に、江戸幕府初代将軍徳川家康はその那古野城の跡地に注目し、その場所に新たな城の建造を着手しました。

    慶長12年(1607年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が尾張一国を与えた四男の松平忠吉が28歳で急死し、九男の義直が遺領を継ぎました。

    尾張藩の居城であった清須城は水害などの危険性が高く新たに築城が必要との上申が江戸幕府初代将軍徳川家康になされました。これを受けて徳川家康は慶長14年(1609年)に名古屋城築城の名古屋遷府令を発しました。

    次々と城を築城!

    Photo by km058

    この名古屋城築城という天下普請により、名古屋城の工事が始まってから2年後の慶長17年(1612年)には、大小の天守閣と各櫓が竣工し、その3年後の慶長20年(1615年)には本丸御殿が竣工、さらに2年後の慶長22年(1617年)には二之丸御殿が完成しました。

    名古屋城の初代城主、江戸幕府初代将軍徳川家康は自らの財政力を持って当時の最先端の技術と人員で、凄まじい速さで名古屋城を建てていきました。

    江戸幕府創設・将軍のおひざ元に

    Photo by km058

    江戸幕府創設で江戸幕府初代将軍の徳川家康が命を受けて作った名古屋城はその後、徳川家康の九男徳川義直が入城し城主となり「尾張初代藩主」となりました。それ以降名古屋城は明治まで、多くの城主と共に尾張徳川家のお膝元として深い歴史と共に歩んでいきます。

    尾張徳川家の城として名古屋城は有名に

    Photo by km058

    名古屋城築城の2年前、慶長12年(1607年)に、江戸幕府初代将軍徳川家康の九男・義直が藩主となって尾張徳川家の歴史が始まり、その後、16人の藩主(義直、光友、綱誠、吉通、五郎太、継友、宗春、宗勝、宗睦、斉朝、斉温、斉荘、慶臧、慶勝、茂徳、義宜)により約260年の治世が続きました。

    尾張徳川家藩主の徳川義直は、清須城主の将軍徳川家康の四男である忠吉の死を期に尾張徳川家を任されましたが、まだ8歳だったために、政務は付家老の平岩親吉が担いました。

    江戸幕府初代将軍徳川家康が死去した元和2年(1616年)に徳川義直は名古屋城に入城、城主となり17歳で「徳川御三家」の一角を率いる立場となりました。義直の時代は学問に力を入れて尾張教学の礎を築いたことは有名な歴史です。

    名古屋城最後の城主「徳川慶勝」

    Photo by km058

    嘉永2年(1849年)には第13代城主の慶臧が14歳で病死し、尾張徳川家14代藩主は高須藩主である松平義達の二男で14代城主「徳川慶勝」がつきました。

    徳川慶勝は、激動の時代である幕末の名古屋をまとめ、積極的な藩政改革を進め、大老井伊直弼のアメリカとの条約調印を批判したことが原因で安政5年(1858年)に「安政の大獄」で謹慎を命じられました。

    その後、尾張徳川家藩主は徳川慶勝の弟で第15第城主の茂徳に譲られましたが、文久2年(1862年)に徳川慶勝の謹慎が解かれると、徳川慶勝の三男の義宜が第16第城主家督を相続しました。そして義宜を藩主とし、実権は徳川慶勝が握りました。

    第14第城主から再びの城主

    Photo by BONGURI

    息子の義宣の死後は再び第14代城主の慶勝が城主になり元治元年(1864年)の第一次長州征討で征討軍総督に任ぜられて軍を統率し、幕府にとって重要な役職を任せるに足る人物となりました。

    慶勝は越前藩の松平慶永らと公武合体を推進し、慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まった間も無く、慶勝は天皇方に付き、新時代の幕開けを後押ししました。

    戦争によって燃えた名古屋城

    Photo bySkitterphoto

    大小天守と櫓、門、御殿などは築城からほぼそのままの形で昭和戦前期まで残存していましたが、1945年の名古屋大空襲で大部分が焼失されました。

    長い歴史と共に名古屋にそびえ立ってきた名古屋城は、現代に入り戦争であっけなく崩されてしまいました。昭和20年(1945年)5月14日の朝その事件は起こりました。

    B29によって崩壊

    Photo by H. Michael Miley

    5月14日、名古屋の朝に空襲警報が鳴り響き、間も無くアメリカ軍の爆撃機である「B29」が名古屋市北部に無数の焼夷弾を投下しました。1時間以上という長い時間での爆撃は、名古屋の街を火で丸焼きにしてしまいました。まさに火の海となった名古屋で、名古屋城にも大きな被害がありました。

    名古屋城では、B29の爆撃により天守、本丸御殿など主要な建造物が焼失してしまいました。金鯱(きんのしゃちほこ)を避難させるために組まれていた足場に焼夷弾が乗っかり、火炎が城全体を火だるま状態にしたと言われています。

    辛うじて、東南隅櫓、西南隅櫓、本丸表二之門、二之丸大手二之門、二之丸の二之丸東二之門、御深井丸の西北隅櫓の6棟は戦災を免れています。

    1959年に複製の名古屋城が完成!

    Photo by Kentaro Ohno

    戦争で焼けてしまった名古屋城ですが、再建を願う声が市民からも高まり、昭和30年(1955年)に名古屋城再建準備委員会を名古屋市が立ち上げ、地質調査や費用捻出を検討し、昭和32年(1957年)に天守閣再建に着工しました。

    天守閣再建には、市民からの意欲的な募金活動で集められた資金も活用されました。そして、昭和34年(1959年)には市政70周年記念事業として大天守・小天守・正門も鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されました。

    名古屋城は様々な城主と歴史を刻む

    Photo by km058

    名古屋城は多くの城主と共に生き抜いてきました。誰が城主だったか?と、考えることもできないくらい人が入れ替わり城主として名古屋城を守り抜いていたということが歴史から捉えることができます。

    そして江戸幕府、尾張徳川家にとって生き抜くための大切な居所だったことが分かりました。名古屋城を訪れた際には、様々な歴史に思いを馳せてみましょう。

    kond.h
    ライター

    kond.h

    埼玉県在住、20代。国内外の美味しい「食事」を探し求め、食べ歩く事が趣味です。

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