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山形城を日本百名城の1つにする程、壮大な城に生まれ変わらした最上義光は1546年、1月1日にその山形城で生まれます。幼少の頃より、年齢よりも遥かに大きい体をしており、16歳の頃に200キロの大岩を持ち上げたとの逸話もある程、武勇に優れていました。
父の義守とは2度ほど不仲により争いに発展します。1度目は1570年に起こり、この時は家臣の氏家定直が取りなし、不仲は解決します。この後、最上義光が第11代最上家当主になります。一時的に解消した不仲でしたが、1574年に再び争いが起きます。
この時は、父義守側に伊達輝宗が援軍に駆けつけます。他にも最上家内でも義守側につく武将も多く、義光は劣勢に立たされます。しかしながら、この圧倒的不利な状況を義光は跳ね返し、見事に勝利するのです。そして、伊達家の属国だった最上家はこの出来事を境に独立を果たすのです。
最上義光は豊臣家とはかなりの確執がありました。豊臣秀次が最上義光の3女の駒姫を見染めてしまい、側室にしたいと申し出を受けますが、義光は断ります。しかし、再三の要求から、駒姫が成長後に側室に差し出すと約束をします。
そして駒姫が15歳になり、約束通り側室に差し出します。しかし、豊臣秀次が秀吉より、なかば強制的に出家を命じられ、そろどころか切腹を命じられます。理由は諸説あり定かではありませんが、秀吉に秀頼が生まれ、養子だった秀次が邪魔になったという説が有力です。
秀吉は妻子も全て処刑するよう命令します。最上義光は、まだ正式に側室になる前だった駒姫は助けてもらうよう家康を通して嘆願します。しかし、処刑免除の知らせが現場に届く前に、駒姫は処刑されてしまいます。この事が元で、駒姫の母である大崎夫人も駒姫の死後27日後に亡くなってしまいます。
豊臣秀吉に、何の罪もない最愛の娘を15歳という若さで処刑され、そのショックから妻も亡くなり、義光の豊臣家への憎悪は相当なものでした。自身も謹慎処分を受けましたが、間もなく解かれ、その後は完全に徳川派となり、家康を支える続けるのです。
関ヶ原の戦いでは徳川家康側の東軍に味方し、西軍の上杉軍と対峙します。北の関ヶ原とも言われた慶長出羽合戦の主戦場となった長谷堂城の戦いで、戦力に大きな差がありながら、上杉軍を撃退します。徳川家康率いる東軍が勝利すると、その功績から57万石の大大名となるのです。
初代山形藩主となった最上義光は内政を重視します。山形城を、後に日本百名城の1つになる程の壮大な名城に改築します。そして、最上川の治水に力を入れ、領内の流通を盛んにしました。また、北楯利長の指揮の元、北楯大堰を完成させ、庄内地方を肥沃な土地に生まれ変わらせました。
民に対して、土地を分け与え、年貢を下げ、年貢以外の税金を取らなかったりと、とても寛大で、義光の統治下になってからは山形では一揆はほとんど起きなかったのです。その民を思う気持ちが山形を大きく発展させたのです。
山形城主最上家のお家騒動
最上家を57万石の大大名にまで押し上げた義光の死後、次男の家親が最上家第12代当主となりますが、家親は37歳の若さで急死します。その死因は毒殺とも言われました。その後、第13代当主となったのが、家親の一人息子の家信でした。
しかしながら家信は凡庸な城主で、家臣の中には義光の4男にあたる山野辺義忠を城主に擁立しようとする者もおり、家信派と2つに別れ、内紛が起きてしまうのです。これを重く見た幕府は、最上領を一旦幕府預かりとし、家信に6万石を与え、家信が成長した後返却するという措置を取ります。
しかし、一部家臣はあくまでも家信に従う事はなく、状況は変わらないと判断した幕府より、最上家は改易を命じられてしまうのです。かろうじて、近江大森で1万石を与えられ、最上の名前を残す事を許されたのが、幕府のせめてもの温情だったのでしょう。これが俗に言う最上騒動です。
しかし、その後近江大森1万石に移り住んだ最上家でしたが、家信の死後、長男の義智が第14代最上家当主となりますが、まだ幼少だった為、更に石高を減らされ、最大57万石だった最上家は最終的に5000石にまで衰退してしまうのです。
歴史に翻弄される山形城
最上家の改易後、山形藩主が次々と変わり、その都度改修がされてきましたが、57万石の栄華を誇った時代の城を維持し続けるのは困難を極めました。三の丸はしばらく放置され、その後はほとんどが田畑になっていました。城郭は大破していて、本丸は更地になり、御殿は二の丸に移されていました。