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藤堂高虎によって築かれた近世城郭
宇和島城が現在のような形となったのは、1595年以降のことです。それまでも現在の位置に城は建てられていましたが、規模は小さく、形も現在の宇和島城とは違っていました。
現在の宇和島城の形が作られるようになったのは、1595年に藤堂高虎が幕府から宇和島領を拝領したのがきっかけでした。藤堂高虎は、拝領の翌年にあたる1596年から既存の宇和島城の改築に乗り出します。
宇和島城の改築は、完成までに約4年の歳月がかかっています。そしてこの改築工事の際に城主の藤堂高虎は、宇和島城の城郭にある特殊な仕掛けを施します。
江戸時代以前に建てられた日本の城は、城主の居城としての役割よりも、軍事施設としての役割を重視して建てられています。そのため戦で敵の侵入を阻止するために石垣や堀で城の周囲を取り囲み、廓(くるわ)や櫓(やぐら)を建てました。これらの軍事設備の総称を「城郭」といいます。
そして藤堂高虎が宇和島城に施したある特殊な仕掛けは城郭の構造にあり、見た目の美しさよりも要塞(ようさい)としての機能を最大限に引き出すことに成功しました。
特徴的なのは、宇和島城城郭の形です。一般的な城郭は四角形をベースにしていますが、宇和島城の城郭は不等辺五角形です。5辺のうちの1辺だけ空角(あきかく)にすることで、敵の目線からは四角形に見えるようにしました。この手法を「空角のなわ」といいます。
なお「空角のなわ」のほかに宇和島城の城郭には様々な仕掛けがあるのですが、宇和島城のような城郭の構造は「梯郭子規平山城」と呼ばれ、宇和島城の完成以降に作られた近世城郭のモデルとなります。
築城の名手と言われた高虎が建設
近世城郭のモデルとなった宇和島城は、築城の名手といわれた藤堂高虎の存在がなければ作られなかったかもしれません。藤堂高虎は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将の1人ですが、高い築城技術を持った築城家としても知られています。
藤堂高虎が活躍した時代は各地で武士が台頭していたため、軍事施設としての機能が築城する際には重視されていました。そのため藤堂高虎は、敵の侵入を防ぐために石垣を高く積み上げる独自の技法を編み出します。
ちなみに藤堂高虎が手掛けた城は宇和島城のほかに今治城、伊賀上野城、二条城などがありますが、いずれの城の石垣も高く積み上げられています。
なお藤堂高虎と同時期に活躍した武将・加藤清正も、築城の名手として有名です。加藤清正も独自の石垣づくりの手法を持っていますが、その手法は藤堂高虎のものとは大きく異なります。
加藤清正が作った代表的な城には熊本城、名古屋城、佐敷城などがありますが、いずれの城の石垣もそれほど高く積み上げられていません。むしろ反りを重視した設計となっており、石垣の反りが加藤清正の築城の特徴でもあります。
2人の城のつくり方には、明らかに違いがあります。ただ同じ時代を生き、互いの才能に刺激されたことが、数々の名城を建てる原動力となったのかもしれません。
城跡は国の史跡に指定
現在見ることができる宇和島城は、藤堂高虎が築城した当時のものとは違います。また「海城」として重要な役割を担っていた堀は、東側の堀も含めすべて埋められています。
さらに高虎の築城技術を集結させて作られた城郭も、三の丸を含め約28万平方メートルが失われてしまいました。そのため現在の宇和島城をみると「自然の中にある小さなお城」というイメージが強いのですが、かつては広大な敷地を誇る立派な姿だったのです。
ただし日本にわずか12城しか現存しない江戸時代以前の天守は、国の重要文化財に指定されています。また本丸・二の丸がある約10万平方メートルの城山は国の史跡に指定されており、現在でも見学が可能です。
西側半分が海に接している海城
藤堂高虎は、宇和島城の東側に海水を引き込んだ水堀を作らせました。これは宇和島城の西側半分が海に接していることに注目して考えた、築城家・高虎ならではの手法です。
さらに高虎は東側の堀にあえて海水を引き込むことで、宇和島城の東側と西側に海の要塞を作りました。海から城を攻撃することは、当時の軍事技術ではほぼ不可能です。そのため宇和島城の防御機能は格段に上がり、「難攻不落の海城」といわれるようになります。