大阪の新天地には、かつて「フェスゲ」と呼ばれた都市型遊園地・フェスティバルゲートがありました。
今でも地元住民の中で話題に上がることもあるフェスティバルゲートですが、その跡地がどうなったのか、オープンから破綻までの様子を含め、周辺地域の今を徹底検証しました。
大阪・フェスティバルゲートはどんなところだった?
「フェスゲ」の愛称で親しまれていた大阪の都市型遊園地・フェスティバルゲートは、アミューズメント施設やショッピングエリアを持つ大阪の人気スポットでした。
大阪新世界のランドマークである通天閣から近い都市型遊園地でしたが、その総面積は1.4ヘクタールあり、店舗面積も5700平方メートルありました。
大阪・フェスティバルゲートの隣には温泉をテーマにした「スパワールド」があり、アジアとヨーロッパをイメージしたフロアにはそれぞれの国を代表する浴場があります。
そのため都市型遊園地と都市型温泉施設がセットになって楽しめるフェスティバルゲートエリアは、子供から大人まで楽しめる大阪の人気スポットでした。
そんな大阪で人気スポットだった都市型遊園地・フェスティバルゲートですが、今は営業をしていません。
しかも夜景スポットとしても人気があったフェスティバルゲートですが、その跡地には当時の面影すら残っていません。
そこで「なぜ大阪新世界の名所だった都市型遊園地が閉園となったのか」「跡地は今どのようになっているのか」を詳しく紹介していきます。
建設計画自体はバブル期に行われた
大阪新世界に巨大な都市型遊園地の建設計画が持ち上がったのは、日本中がバブル景気で沸いていた1989年のことです。
もともとフェスティバルゲートは、地下鉄やトロリーバスを運行していた大阪市交通局の霞町車庫の跡地利用として作られた施設でした。
車庫跡地を含む土地開発エリアはAゾーン・Bゾーンの2区画あり、そのうちのAゾーンが都市型遊園地・フェスティバルゲート、Bゾーンは都市型温泉施設・スパワールドに割り当てられます。
ちなみに車庫跡地のAゾーンの土地開発は、大手銀行3行による共同事業案をもとに進められた、総工費約500億円というビッグプロジェクトでした。
遊園地と娯楽施設が合わさった都市型遊園地
大阪交通局の車庫跡地に作られたフェスティバルゲートは、遊園地と娯楽施設を融合させた都市型遊園地です。
フェスティバルゲートの外観は「海底に沈んだ古代都市」をイメージして作られ、8階建ての建物には3つの広場があります。
それぞれの広場に設置されたアミューズメント施設・商業施設は、都市型遊園地と一体化させていたため、施設に入った瞬間から巨大なおもちゃ箱の中に迷い込んだ気分になれる夢のような空間を演出しました。
中でも特にフェスティバルゲートで目を引いていたのが、全長約750メートルのジェットコースター「デルビス・ザ・コースター」です。
遊園地と商業施設が合体した都市型遊園地のジェットコースターは、最大斜度約50度、最高スピード時速100キロメートルでフェスティバルゲート内を縦横無尽にかけ抜けます。
しかもジェットコースターのレーンの1部は入口がある建物の外側にも設置されたため、おもちゃ箱のような夢空間から突然外に頬りだされる不思議な感覚が楽しめます。
さらにフェスティバルゲートには、ジェットコースターのほかにも「クロノス」などの絶叫マシーンがあり、都市型遊園地とはいえ子供から大人まで楽しめるアトラクションが満載です。
そんなフェスティバルゲートは、夜になるとデートスポットに変身します。
吹き抜けの広場に置かれたメリーゴーランドのイルミネーションは大阪の夜景スポットとしても有名で、メリーゴーランドが見えるカフェテリアは週末デートを楽しむカップルたちで埋め尽くされます。
しかもフェスティバルゲートの店舗エリアには、海外の珍しい雑貨やアクセサリーの店やおしゃれなレストラン、4スクリーン約600人を収容できる映画館もあります。
しかもフェスティバルゲートの隣には、世界の温泉が楽しめる温泉施設が24時間営業しています。
そのため当時のフェスティバルゲートは、「夜中でも遊べる都市型遊園地」としてバブルに沸く大阪を代表する人気スポットになります。
開業初年度は入場者数831万人と大盛況
総工費約500億円をかけて夢のような空間を演出した大阪のフェスティバルゲートは、日本中がまだバブル期にあった1997年7月18日にオープンします。
商業施設と一体化させていたため、フェスティバルゲートでは施設入場料を無料にします。
さらにジェットコースターのレーンが入場ゲートの外側に飛び出すという大胆な外観に、オープン前から多くの注目が集まりました。
そのため都市型遊園地でありながら初年度の入場者数が831万人を記録する、まさに計画通りの順調な滑り出しでした。
フェスティバルゲートはなぜ廃業したのか
独創的なアイデアとバブル期の豊富な資金を使い、初年度には来場者数831万人超えという大記録をうちたてた都市型遊園地・フェスティバルゲートですが、その後の運命は計画通りに進んでいきませんでした。
跡地を訪れても、今はどこにもフェスティバルゲートの面影がありません。
いったいなぜフェスティバルゲートは、大成功のスタートから一転し破綻へと追い込まれたのでしょうか?
アジア通貨危機の影響
フェスティバルゲートの破綻の大きな原因は、オープンした時期にあります。
建築計画が進められたのはバブル全盛期で、フェスティバルゲートのオープンはバブル末期の1997年です。
もしもバブルの全盛期にフェスティバルゲートがオープンしていたら、もしかしたら今は別の結果になっていたかもしれません。
ただ残念なことにオープンの翌年にはアジア通貨危機が起こり、その後のバブル崩壊へとつながります。
日本のバブル崩壊は、消費税増税や経済課題の問題などが関係しています。
そのためアジア通貨危機がバブル崩壊の引き金になったものの、日本経済への影響は少し遅れてから現れます。
ただしバブル崩壊後の影響は、商人の街・大阪を直撃します。
バブル景気は街から消え、不景気の風が吹き抜けます。
そのためバブル景気の継続を見込んで多額の総工費がつぎ込まれた都市型遊園地は、途端に資金の回収が困難になります。
それでもバブル崩壊だけであれば、夢の空間・フェスティバルゲートは今もまだ営業していたかもしれません。
ところがフェスティバルゲートは、その後バブル崩壊を超えるさらなる危機に襲われます。
数年後開業したUSJの影響
バブル崩壊による不況の中もなんとかもちこたえていたフェスティバルゲートですが、オープンの4年後の2001年に大阪にUSJが誕生すると、客足は一気にUSJへ流れていきます。
さらに不況のあおりを受け少子化が深刻化したことで、子供連れをターゲットにした都市型遊園地・フェスティバルゲートへの客足は減少の一途をたどります。
客足が遠のき運営元が倒産
新たに大阪にできたUSJは、商業施設と一体化したフェスティバルゲートにとって大きな誤算でした。
もともとバブル全盛期に計画された施設だったため、商業施設のテナント料は高額です。
ところが客足がフェスティバルゲートからUSJに流れたことで、出店店舗の売り上げは計画当初の目標額を大幅に下回り、次々と撤退していきます。
店舗の撤退によって、夢のような空間だったフェスティバルゲートは空き店舗ばかりが目立つようになります。
それによってさらに客足が遠のくという悪循環に陥りました。
結果としてフェスティバルゲートは運営会社の倒産により、2004年に破綻します。
フェスティバルゲートの跡地と計画
運営会社が多額の赤字を抱え破綻したフェスティバルゲートは、200億円もの借金を大阪市が補填することでなんとか決着します。
その後、フェスティバルゲートの跡地利用を巡ってさまざまな計画が出てきます。
暫くは建造物が残されていた
跡地計画に最初に手を挙げたのはオリックスでした。
倒産の翌年の2005年4月には、フェスティバルゲートを全面改装して「大阪市交通記念館」をオープンさせる計画を立てます。
ところが倒産後もフェスティバルゲートには残って営業を続ける店舗があり、全面改装による立ち退き交渉が決裂します。
さらに店舗フロアの跡地に、巨大な電車のレプリカを展示する計画そのものにも無理がありました。
結局跡地利用に手を挙げたオリックスは支援から撤退し、跡地計画は白紙に戻ります。
その後も大阪市主導で跡地の再利用計画が検討されましたが、どれも「収益性が見込めない」「実現が困難」などで、すべての計画案が却下されます。
ただしこの時点でも一部の遊具施設や店舗フェスティバルゲート内で営業していたため、破綻後もしばらくは建物がそのまま残されていました。
スポーツアミューズメント施設としての計画も
結果としてすべての跡地利用計画が却下されたフェスティバルゲートですが、その後も跡地をめぐる計画はいくつも出てきました。
ただいずれの計画も実現までには至りません。
フェスティバルゲートの跡地計画が大きく動き始めたのは2009年のことです。
この年に行われた競売によって、パチンコ業界大手のマルハンがフェスティバルゲートの跡地を落札します。
ただし競売では「落札から5年間はパチンコ店の出店を禁じる」という契約が盛り込まれていたため、パチンコ業界大手のマルハンは、本業のパチンコ以外で施設を利用する計画を立てなければいけません。
そこで最初に登場したのが、ボーリング場をメインにしたスポーツアミューズメント施設の建設計画です。
ただしこの計画案も、結果として白紙になります。
韓流テーマパークが開業する計画も!
スポーツアミューズメント施設をつくる計画が流れたマルハンは、フェスティバルゲートを解体した跡地に4階建ての建物を建て、そこに韓流テーマパークをオープンさせる計画を発表します。
発表時には「2014年秋にオープン」としていましたが、ちょうどこの頃、日韓関係が悪化します。
マルハンはそのことを理由に、フェスティバルゲート跡地を韓流テーマパークとする計画を白紙にします。
2012年頃には更地に
落札後も跡地計画が二転三転したフェスティバルゲートですが、落札したマルハンは当初からフェスティバルゲートを取り壊し、跡地に新たな建物を建設することを決めていました。
そのため跡地計画の2案はいずれもボツとなりましたが、その間にフェスティバルゲートの建物はすべて取り壊され、2012年頃には更地になりました。
フェスティバルゲートの今
運営会社の経営破綻から跡地計画に至るまで、次々と問題が起こったフェスティバルゲートですが、営業当時の面影が残る場所は今の大阪にはありません。
ではフェスティバルゲートの跡地は今、どうなっているのでしょうか?
気になるフェスティバルゲート跡地の今を追跡します。
マルハン新世界店がオープン
日韓関係の悪化を理由に、4階建ての韓流テーマパーク建設計画が流れたフェスティバルゲート跡地ですが、運営会社であるマルハンは計画断念ではなく計画の見直しを図ります。
ちょうどこの頃、競売の落札契約で禁じられたパチンコ店の5年間出店禁止期間が終わり、マルハンの本業であるパチンコ店のオープンができるようになります。
そこでマルハンは、パチンコ店と商業施設をミックスさせた施設を作ることに決めます。
さらに商業施設の核となるテナントにドン・キホーテを誘致し、パチンコ店とMEGAドン・キホーテが入る2階建ての施設を建てます。
なお先行してオープンしたのが、マルハンの本業であるパチンコ店「マルハン新世界店」で、2014年12月30日にオープンしました。
さらに約2か月後の2015年2月27日にはマルハン新世界店の2階に「MEGAドン・キホーテ新世界店」がオープンし、今も順調に客足を伸ばしています。
フェスティバルゲートへのアクセス方法
かつて年間800万人以上の来場者が訪れたフェスティバルゲートの建物は今、大阪・新天地のどこにも残っていません。
それは2012年頃に更地になった後、現在のマルハン新世界店が跡地に建っているからです。
ただ大阪市民にとって懐かしい思い出の場所として、今もフェスティバルゲートの跡地を訪れる人はいます。
そこで今はなきフェスティバルゲート跡地巡りをする際のアクセス方法を紹介します。
電車の場合
電車でアクセスする場合は、地下鉄御堂筋線・堺筋線、JR大阪環状線・大和路線、南海本線・高野線の3路線を使うのがおすすめです。
なお地下鉄御堂筋線・堺筋線の場合は「動物園前駅」、JR大阪環状線・大和路線または南海本線・高野線の場合は「新今宮駅」が最寄り駅です。
いずれも駅からは跡地までは徒歩5分圏内です。
車の場合
大阪市内から車で跡地に行く場合は、国道165号線から国道205号・国道26号を経由し御堂筋方面に向かいます。
さらに渡辺橋南詰交差点から大阪駅方面に右折し、阪神高速1号環状線に入ります。
夕陽丘出口から府道102号から国道25号を経由し、さらに堺筋に入る交差点を左折します。
しばらく道なりに進むと、進行方向の左側にフェスティバルゲート跡地(今のマルハン新天地店)が見えます。
フェスティバルゲートの周辺おすすめスポット
子供から大人まで楽しめる都市型遊園地施設として、多くの来場者が訪れたフェスティバルゲート跡地周辺には、今もおすすめの観光スポットがたくさんあります。
そこでフェスティバルゲート跡地巡りのついでに立ち寄れる、おすすめの周辺スポットを紹介します。
天王寺動物園
子供と一緒に楽しめる周辺おすすめしたいのが、大阪中心部にある天王寺動物園です。
天王寺動物園の周辺には、フェスティバルゲート跡地がある新天地、大阪のシンボル・通天閣、商業施設・あべのハルカスなどがあります。
そんな天王寺動物園の歴史はフェスティバルゲートよりもはるかに長く、2015年には開園100周年を迎えました。
周辺に都会的な建物が並ぶ大坂の中心部にある動物園ですが、総面積約11ヘクタールの園内には80種1000点の動物たちが飼育されています。
なおさまざまなイベントを実施しているのも魅力の1つで、動物のエサやりやふれあい体験のほかにも、裏話が聞ける「飼育員のワンポイントガイド」や期間限定の「ナイトZOO」など老舗動物園ならではイベントが盛りだくさんです。
ちなみに動物園周辺にもおすすめスポットが多いです。
たとえば美しい日本庭園が魅力の慶沢園もおすすめ周辺スポットの1つで、園内には200種類におよぶさまざまな木々が植栽されています。
小さな子供連れのファミリーに人気なのが、広い芝生が広がる多目的公園「てんしば」です。
園内にはレストランやカフェのほかにコンビニなどもあるので、のんびりとランチやお弁当を楽しむのにぴったりです。
また天王寺駅にもアクセスがしやすいので、あべのハルカスやあべのキューズモールなどでショッピングを楽しむこともできます。
天王寺動物園
住所:大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-108
忍者堂
忍者堂は、フェスティバルゲート周辺の雑居ビル4階にある忍者のテーマパークです。
フェスティバルゲートの最寄り駅である新今宮駅から徒歩1分の場所にあるので、ちょっと変わった周辺観光がしたい人におすすめです。
来場者に人気の「忍者体験」では、忍者の衣装を着て5つの忍者修行を体験します。
忍者の基本である歩き方・刀の持ち方・構え方を習ったら、忍者の飛び道具である吹矢や手裏剣に挑戦します。
またオプションメニューを選択すると、忍者の衣装のまま周辺観光スポットの自由散策ができます。
さらにもっと忍者道を極めたい人には、VR体験で侍と対戦するオプションメニューもあります。
ちなみにVR体験は7歳以上からの申し込みですが、通常の忍者体験は4歳以上から参加可能です。
オプションメニューの「衣装着たまま自由散策」もたっぷり1時間楽しめるので、周辺の観光地で一風変わった記念写真が撮れます。
忍者堂
住所:大阪府大阪市西成区太子1-1-18ワカバビル4F
通天閣
フェスティバルゲート周辺観光としてだけでなく大阪観光としても外せないのが、大阪のランドマーク「通天閣」です。
かつてフェスティバルゲートが合った新天地の中心に位置し、2007年には国の登録有形文化財にも指定されました。
高さ108メートルの鉄骨鉄筋コンクリート造の通天閣は、1956年にオープン以来大阪のシンボルの座を守り続けています。
2か所ある展望台のうち、5階にある「五階展望台」には、通天閣の幸運の神様「ビリケン像」が安置されています。
なお通天閣のビリケン像の足の裏を触ると幸運が訪れるという言い伝えがあるので、訪れた人のほとんどがビリケン像参りをします。
さらに「天望パラダイス」と呼ばれる屋外展望台では、高さ94.5メートルから新天地周辺を一望することができます。
ちなみに30分単位での入れ替え制で、入場者には双眼鏡の無料貸し出しサービスがあります。
なお館内にあるマザー牧場プロデュースのカフェやキン肉マンミュージアム、グリコ・日清食品・森永製菓のアンテナショップ「通天閣わくわくランド」なども人気スポットです。
通天閣
住所:大阪府大阪市浪速区恵美須東1-18-6
USJ
フェスティバルゲート閉鎖の一因となったUSJも、今ではフェスティバルゲート跡地周辺の観光スポットになっています。
ただしどちらかというと「フェスティバルゲート跡地巡りのついでに寄る」より、「USJのついでに跡地に行く」が多いようです。
いずれにしても、USJが大阪を代表する観光スポットであることは間違いありません。
ハリウッド映画の世界を再現したテーマパークという点では、かつて「おもちゃ箱の中のようだ」といわれた都市型遊園地・フェスティバルゲートにつながるものを感じます。
フェスティバルゲートファンからすれば「大阪にUSJが来なければ!
」という想いもあるかもしれませんが、今や日本を代表するテーマパークですから、跡地とセットで新旧テーマパーク巡りを楽しむのもよいのではないでしょうか?
初年度から来場者数がすごい!
大阪新天地の都市型遊園地・フェスティバルゲートが、初年度来場者が831万人だったことはすごいことです。
ところがフェスティバルゲートの勢いを止めたUSJは、初年度の来場者数もけた外れです。
なんとUSJの初年度来場者数は1102万9000人で、当時は「世界で最も早く1000万人を突破したテーマパーク」としてニュースになりました。
USJ
住所:大阪府大阪市此花区桜島2-1-33
フェスティバルゲートは商業施設へと生まれ変わった
かつて大阪市民から愛されたフェスティバルゲートの跡地は、破綻から10年以上たった今、マルハン新天地店&MEGAドン・キホーテになっていました。
フェスティバルゲートの面影は街からすっかり消えてしまいましたが、今でも街の風景は昔のままです。
そんな懐かしい風景を見に、跡地巡りに出かけてみませんか?