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初代土佐藩主・山内一豊とは
ここでは、高知城を築城した山内一豊とはどのような人物であるかについて触れていきましょう。山内一豊は尾張国岩倉(現在の愛知県岩倉市)の出身で、生年は1545年とも1546年とも言われています。
山内家は岩倉織田氏(織田信長とは同族だが別の家)に家老として仕えていましたが、主家が滅亡した為、一族離散の憂き目に遭います。一豊自身も主家を転々としましたが、1568年から信長の家臣である、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えることになります。
その後、秀吉の配下として数々の戦いで手柄を上げ、小田原征伐が終わり天下が統一される頃には、掛川城主となり、5万1000石を領する大名となっています。
更に、1600年の関ヶ原の戦いの際には東軍として参加しました。関東から上方へ向かう徳川家康に対して、誰よりも早く居城の掛川城の提供を申し出て家康の信頼を勝ち取りました。
関ヶ原の戦いの前哨戦では他の大名と共同で、岐阜城主の織田秀信(信長の孫)を破るなどの功績をあげ、戦後には土佐一国を治める国持大名に出世しました。そして、一豊が土佐を統治する拠点として築城したのが、今回ご紹介する高知城です。
また、山内一豊を語る上で無視できないのは、大河ドラマの題材にもなった妻、見性院(本名は千代あるいはまつ)の存在です。見性院には、内助の功の逸話がいくつも残っていて、良妻賢母の鑑と言われています。
内助の功の逸話として特に有名なのは、織田信長の馬揃え(軍事パレード)が行われる際に一豊が欲しがっていた名馬を、見性院の私有財産から10両(現在の価値で250万円ほど)を出して買い与えたエピソードがあります。
その甲斐あって一豊はこの馬揃えで信長の目に留まり、見事、出世を果して大名への道を駆け上がっていくことになります。
こうして、夫婦二人三脚で土佐藩主にまで上り詰めましたが、一豊は高知城の完成を見ることなく1605年に亡くなります。二人の間に男子はなく、一人娘も早世していて、高知城を完成させた二代藩主の忠義は、養子で一豊の弟の子に当たる人物です。
見性院は一豊の死後はその菩提を弔いながら、京都で暮らしました。大坂の陣により豊臣家が滅び、徳川の時代となった2年後の1617年に亡くなっています。
多くの偉人を輩出した土佐藩
幕末、明治維新の際には薩長土肥の一角を占めた土佐藩は、亀山社中(後の海援隊)を設立し、明治維新の原動力となった、薩長同盟の成立に重要な役割を果した言われる坂本龍馬をはじめ、歴史の舞台で活躍した、数々の偉人傑物を輩出しています。
自由民権運動で知られる板垣退助も、土佐藩出身の人物です。土佐藩兵を率いて戊辰戦争を戦い、維新後は明治政府で要職を歴任しましたが、征韓論をめぐって岩倉具視らと対立し下野、自由民権運動に身を投じました。
1890年に帝国議会が開かれると自由党を組織しました。この自由党は現在の自由民主党の源流とも言うべき政党であり、板垣は日本の政党政治の基礎を築いた立役者の一人と言えます。
また、三菱グループの前身、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎も土佐出身です。地下浪人という貧しく低い身分の武士の家に生まれでしたが、後に土佐藩の参政(家老)となる吉田東洋やその甥の後藤象二郎らに目をかけられ、藩の下級役人として取り立てられました。
幕末から明治維新にかけて主に土佐藩の商務組織で力を発揮した弥太郎は、維新後は実業家に転進し、土佐藩から九十九商会の経営を任されます。これが後の三菱財閥の前身です。
三菱財閥は明治政府とともに成長を続け、戦後の財閥解体により財閥としては終焉を迎えましたが、個々の企業は生き残り、現在も巨大な企業グループを形成し日本経済の発展を支え続けています。