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高知城の歴史
高知城は高知市の大高坂山の上に築かれたお城です。土佐藩の初代藩主の山内一豊と二代藩主忠義が、二代がかりで完成させました。
高知城は地形による城の分類では、平山城(ひらやまじろ)に分類されます。平野の中にある山や丘陵に築かれる城のことで、高知城が築かれた大高坂山も高知平野の中心に存在します。
平山城は防御施設としての特徴と、政治と経済の中心としての特徴を持ち、世の中が平和になり始めた戦国時代末期から江戸時代にかけて多く築城されました。高知城も土佐藩の政庁として、江戸時代を通じて土佐(現在の高知県)の政治経済の中心的役割を果しました。
高知城が築かれた大高坂山には、長い歴史の中で何度も城が築かれました。最初に歴史に登場するのは、南北朝時代(14世紀)に築かれた大高山城という名前の城で、大高坂氏が居城としていたとする記録が残っています。
この大高山城は戦乱により落城し、一旦歴史から姿を消すことになります。次に城が築かれたのは安土桃山時代です。その当時、土佐を治めていた長宗我部が大高坂山に城を築いて本拠としようとしましたが、水はけの悪さなど治水の問題により断念、城は放棄されました。
その後、長宗我部氏は桂浜近くの浦戸城に移り、そこを本拠地としました。ところが、関ヶ原の戦いの結果、長宗我部氏が改易(お家取り潰し)となってしまいます。
長宗我部氏の後は、掛川城の山内氏が土佐に移り当地を治めることになりました。一旦は浦戸城を拠点とした山内氏ですが、浦戸は土地が狭く城下町を開くのに向いていなかったこともあり、新たに城を築く必要に迫られました。
そこで目をつけたのが、高知平野の中心にある大高坂山でした。この土地は長宗我部が築城を断念せねばならなかったほど治水の難しい土地でしたが、優れた築城技術をもった家臣を召抱えていた山内氏は、着工した1601年から2年後の1603年には本丸を完成させました。
当初この城は河中山城(こうちやまじょう)と名づけられましたが、度重なる水害に遭ったことから、河中の字を高智に変更し高智山城となり、後に省略され高知城となりました。
三の丸が竣工して、城全体が完成したのは本丸完成から更に8年後の1611年です。既に初代藩主の山内一豊は1605年に没しており、二代藩主の山内忠義の時代のことです。
その後、1727年には高知城下で大火災が発生して、高知城も追手門を残してほとんどの建造物が焼失してしまいました。再建には実に30年近い年月がかかり、完全に復興を遂げたのは1753年のことでした。現在残っている、建造物の大半はこの時に再建されたものです。
明治維新を経て、高知城は政庁としての役割を終え、明治6年の廃城令により高知公園となりました。高知大空襲により被害を受けましたが、天守閣など多数の建築物が現存していて、歴史の息吹を今日に伝えています。