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またピョートル1世はエヴドキヤ・ロプーヒナを皇妃としながらも、メーンシコフ家の召使マルファ(のちのエカチェリーナ1世)と最初は秘密結婚、のちに正式に結婚し、皇妃としました。このように、クンストカメラ以外にも色々と逸話の残っている人物なのです。
「希少なものの陳列所」とういう意味
正式名称は「ピョートル大帝記念人類学・民俗学博物館」といいます。クンストカメラと言うのは、ドイツ語の「Kunstkammer(驚異の部屋)」をロシア語読みしたものが由来になっています。
この「驚異の部屋」というのはドイツを中心としたヨーロッパで15世紀から18世紀にかけて作られていました。人体標本や模型、書物を始め、様々な珍しいもの、希少なものの陳列室のことを指します。
ピョートル1世が作り上げた「驚異の部屋」は、ロシア国内でも最大といわれており、ロシアで初めて公的な博物館と認められたことから、「クンストカメラ」という名称で呼ばれるようになりました。
所蔵品200万種類を誇る
クンストカメラには、現在でも200万種類を越える資料が所蔵されています。1830年代より、クンストカメラの収蔵品が増えすぎたため、各地の帝国博物庵に分散されたものもあるというので、ピョートル1世の所蔵品の膨大さを窺い知ることができます。
どの所蔵物も思わず目を引いてしまうものばかりです。じっくり見ていると気付けば閉館時間、ということもありうるので、朝いちから訪れることをおすすめします。
クンストカメラの歴史
歴史深い博物館であるクンストカメラは、最初は皇帝の個人的なコレクションだったものを、後日全体公開するようになりました。細かい部分は少しずつ変貌していますが、大まかな部分は皇帝の意思そのままとなっています。
当時から人気であったものの、今はその逸話を聞きつけて、世界から「珍スポット」が好きな人が集まるようになり、現在の人気に至ります。日本でクンストカメラが有名になったのは、TV番組「クレイジージャーニー」がきっかけと言われています。
「自然と人間による珍奇かつ稀覯なもの」の所蔵場所
クンストカメラの当初の目的は「自然と人間による珍奇かつ稀覯なもの」を収集・所蔵することでした。ピョートル1世は宮殿の離宮(夏宮)に保持していたコレクションをこちらに一気に移しました。
クンストカメラの中でも特にその知名度を上げたのが、胎児の人体標本(奇形児を多く含む)でした。展示物の中でも大部分を占める人体標本は、オランダの解剖学者・フレデリック・ルイシュや、薬理学者のアルベルトゥス・セーバといった医療分野から購入しました。
その膨大な人体標本の数々は、当時のロシア皇帝の財力の膨大さを推し量るとともに、これらの数々が科学や医療の発展を後押しした様子が見られます。
皇帝の個人的なコレクションの集積場
クンストカメラの始まりは、1714年にピョートル1世がダンチヒの医師・ゴットヴァルドから1,195種の鉱石コレクションを購入し、その鉱物展示室を作ったことがはじまりとされています。当時は図書館を兼ねた自然科学系の博物学コレクションが陳列していました。
その後、鉱物や自然科学に由来するもののみならず、さまざまな民族の生活を表すものの収集が増えてきたため、そちらも展示する運びとなりました。
これは、ロシアが18世紀初頭の大北方戦争に勝利、バルト海への出口を獲得したことにより、貿易の可能性が大きく広がったことに由来しています。中国、中央アジア、トルコといった各国への輸出入が盛んになり、こういった色々な地域の資料が手に入るようになったのです。