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秀吉は現在の兵庫県、播磨・三木城攻め効果のあった兵糧攻めをここでも実施することにしました。米の高値での買い占め、更に約1400の兵が篭っていた鳥取城に、周辺の農民2000以上を城に追いやることで、場内の兵糧を減らそうという作戦でした。
凄惨な兵糧攻めとして有名
それに加え、後方支援として毛利氏から届けられた兵糧も阻止することで、完全に鳥取城を孤立させました。この時、鳥取城内には約20日分の兵糧しか用意されていなかったため、あっと言う間に兵糧は底を尽きました。
何週間か後には、と鳥取城内の家畜や作物はなくなり、4か月も経つと餓死者が続出しました。鳥取城内は目も当てられないほどの凄惨な状況だったと「信長公記」には書かれています。
鳥取城主の吉川経家は、この状況を目の当たりにし、自らの命と引き換えにすることで、開城し、降伏しました。「鳥取城渇殺し」はこのように凄惨な兵糧攻めとして有名になり、後の世にも語り告がれることとなりました。
その後宮部氏は山頂や山麓に石垣や櫓を配置
降伏した吉川経家の後を引き継いだのは、秀吉の与力だった宮部継潤でした。宮部氏は、鳥取城を山陰地方攻略の拠点とするべく、石垣や櫓を配置し、他方からの攻撃に備えました。
様々な城の整備を行った結果、鳥取城は、江戸時代に入ると日本国内12番目の規模となる、鳥取藩32万石の城として、国内に名を轟かせるようになりました。
昭和18年の鳥取大地震で天守台の石垣や庭園などが崩壊
明治維新後、全国に「廃城令」が出ましたが、鳥取城は軍事的に重要であると認められ、陸軍の施設として使われていました。
しかし、陸軍の撤退後に撤去が決まり、鳥取城の大半は取り壊されました。その後「久松公園」として整備され、大正時代以降は親しまれていました。
昭和18年の鳥取大地震により大きな被害を受け、残っていた天守台の石垣や庭園が崩壊してしまいました。鳥取大地震以降、鳥取城は鳥取市に寄贈され、石垣の修理や城跡の保存に取り組んでいます。
「鳥取城」の見どころ
日本100名城・鳥取城跡に観光に訪れた際、見どころとなるのはどのスポットでしょうか。ここからは、鳥取城観光の参考となる、城跡の見どころについてご紹介してまいります。
「巻石垣」
まずご紹介するのは、「巻石垣」です。鳥取城は、戦国時代に造られた山城と、山麓の近世城郭からなるお城で、広大な城跡には各時代の遺構が残っているため、「城の博物館」の異名がついているほどです。
この異名がついていることも、日本100名城に選ばれている理由のひとつでしょう。各時代の見事な高石垣も現存しているので、どこから観光しようか迷ってしまうほどです。
その中で特に注目すべき見どころポイントは、「天球丸跡」の「巻石垣」です。亀の甲羅のようなかたちに石が積み上げられているその様は、全国でも鳥取城のみで見られる大変珍しい形の石垣です。
近代の建築史において、河川の制水施設や護岸に使われている石垣の技術が、この鳥取城の城壁にも生かされているのではないかと考えられています。
「北ノ御門跡」
慶長時代に行われた大改築前は大手門として使用されていましたが、改築後に搦手門とされたのが「北ノ御門」です。町人などが、鳥取城の丸の内に出入りする場合は、この北ノ御門を使用していたとされています。
現在北ノ御門はその姿を留めていませんが、鳥取城を観光するにあたって必ず通る外せない道にありますので、見過ごせない重要なスポットとなっています。
北ノ御門の標識は、鳥取城を囲むお堀にある、小さなかけ橋を渡ると右手に見ることが出来ますので、是非見つけてみてください。