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日本で初めて「さざえ堂」が建てられたのは、1728年の江戸の地です。現在の東京都江東区大島あたりにあった「羅漢寺」の仏堂で、彼らの宗派は当時最先端の土木技術を持っていました。
現在は取り壊されてしまい残っていませんが、この最初の「さざえ堂」は珍しい構造から江戸の名所として知られ、東日本ではさざえ堂建立ブームが起こりました。会津さざえ堂も、そんなさざえ堂ブームの中で建てられたと思われます。
札所を巡れない庶民のため
仏教では、観音様を祀る霊場を巡って御札を納める「札所巡礼」というものがあります。最も歴史があり有名なのが西国三十三所への巡礼です。しかし一般庶民にとって札所を巡ってお参りするのは大変難しいことで、東北・会津の民にとっては言うまでもありません。
そこで、観音像を一箇所に集めて安置し一度にお参りすることのできる「さざえ堂」が、東日本を中心に全国各地に建てられるようになりました。三十三観音だけでなく、百観音を安置したさざえ堂もあるそうです。
三十三観音札所を一ケ所のお堂に集約
「さざえ堂」のコンセプトに違わず、会津さざえ堂にも回廊に沿って西国三十三観音像が安置されました。西日本への巡礼を諦めていた会津の民も、これで西国三十三所巡礼ができるようになったのです。
残念ながら、正宗寺が廃寺になったのと同様に、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈運動により、会津さざえ堂の三十三観音像も取り外されてしまいました。明治23年、観音像の代わりに白虎隊十九士の霊像が安置され、現在では「皇朝二十四孝」の額が取り付けられています。
会津さざえ堂見どころ
かつて民衆が参拝した観音像は取り外されえてしまいましたが、会津さざえ堂の見どころは他にもあります。会津さざえ堂を観光するにあたり、特に意識しておきたい見どころについて紹介します。
ダビンチも造れなかったらせん構造
らせん構造を特徴とするさざえ堂ですが、二重らせん構造をもつ会津さざえ堂に関しては、なんとあの誰もが知るレオナルド・ダビンチの名前が挙がります。ダビンチが遺したスケッチの中に、二重らせん構造のスロープを描いたものがあるのだそうです。
二重らせん構造のスロープは、ダビンチのスケッチとしては残っているものの、建物としては会津さざえ堂が唯一のものだと言われています。
会津さざえ堂のスロープは、上りと下りが一方通行となっており、それぞれがすれ違うことはありません。合理的な参拝によりブームとなったさざえ堂ですが、会津さざえ堂はたくさんの参拝者が安全にお参りできるところでもありました。
一方で、二重らせん構造はフランスのシャンボール城の階段にもみられ、同じく見どころとなっています。この設計にダビンチが関わっているという説はありますが、定かではありません。シャンボール城はフランソワ1世のために建てられたもので、ダビンチは彼の客人でした。
シャンボール城はコルトナという人物によって設計されましたが、1519年から30年ほどの建設の間にかなりの変更が加えられたそうです。ちなみに、ダビンチの没年も1519年です。
この二重らせんの構想が海を渡り日本に伝わったという説があります。1721年の享保の改革における洋書解禁により、日本では蘭学書の研究が盛んになりました。現在の秋田で藩主を務めていた佐竹義敦は蘭画家でもあり、その写生帖に二重らせん構造の図が残されていたのです。
この図は1670年にジョゼフ・モクソンの著した本の挿絵の模写とのことです。ダビンチの構想からモクソンが本を書き、それが日本に伝わったことで、会津さざえ堂が設計されたのでしょうか。
しかし、ダビンチの構想が会津さざえ堂の設計のルーツになっているという物的証拠はありません。飯盛に伝わる伝説によれば、会津さざえ堂の構造はダビンチとは全く関係なく、さざえ堂の構想を練っていた郁堂が夢の中で二重の「紙縒り」を見て思いついたと言われています。
そもそもシャンボール城の二重らせん階段をダビンチが設計した証拠もありませんが、ダビンチの考案した二重らせん構造が日本に渡り実現したのか、それともダビンチと同じ発想を和尚である郁堂が思いついたのか、どちらにしてもロマンのある話です。
さざえのような外観
さざえ堂という通称の通り、会津さざえ堂はさざえのような面白い外観をしています。中のスロープを歩くのはもちろんのこと、会津さざえ堂は外から見ても十分に楽しめる見どころをもっているのです。
内部にらせん構造をもつお堂をさざえ堂と呼びますが、会津さざえ堂は最もさざえらしい外観をしているといえるでしょう。ある意味、さざえ堂の完成形ともいえるかもしれません。