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松江城を含め、国宝に指定された城は日本で5城のみです。江戸時代当時の姿を残す天守は日本で12城のみで、松江城は現存12天守のうちの1つ、そして国宝となります。とても貴重で魅力あるお城です。
国宝5城とは
国宝5城とは、姫路城、彦根城、犬山城、松本城、そして松江城になります。いずれも有名な名城です。松江城も、他4城に劣らぬ名城です。
戦国時代から江戸時代にかけて、日本全国には相当数の城郭がありました。江戸幕府による一国一城令による廃城、火災による焼失、明治時代の廃城令により、城郭の数は減りました。1940年代までは、残っていた20城の天守閣が国宝や重要文化財に指定されていた過去があります。
しかし第二次大戦により名古屋城や広島城など7城、失火により松前城が焼失しました。そのため、現在残っている江戸時代以来の天守閣は12のみで「現存12天守」と呼ばれ、そのうち5城が国宝で「国宝5城」と呼ばれています。
松江城の歴史をみてみよう
築城された江戸時代初期から現代まで建物が現存していることだけでも、松江城は、歴史的にも非常に貴重です。松江城は、貴重な現存12天守で、国宝5城の1つとなっています。
現存の松江城は、堀尾吉晴によって縄張りされました。堀尾氏は関ヶ原の合戦の功績により隠岐・出雲24万石を与えられ、当初は月山富田城に入城しました。その後、交通の便が良い松江に城を移します。これが現在に残る松江城と城下町の始まりです。
寛永年間に、堀尾氏に代わって京極氏が松江に入封します。京極氏の次に、松本藩から徳川家康の孫に当たる松平直政が入封し、松平氏のもとで明治維新まで続きます。京極氏の時代に、現在の島根県庁がある三の丸が作られました。
堀尾氏、京極氏に次いで、松江城に入った松平直政には逸話があります。大坂夏の陣の際、松平直政は14歳で初陣でした。初陣ながらあっぱれな戦いぶりだった直政に、大坂方だった敵将・真田幸村が軍扇を投げてよこしたと伝わっています。
そんな逸話のある真田幸村所用の軍扇は、松江城天守閣に展示してあります。歴史を感じる見どころの1つです。
1873年(明治8年)に廃城令が公布され、松江城の天守閣以外の建物は払い下げられました。その際に、松江城は一部が解体され、天守閣にも売却・解体の危機が訪れます。
しかし、出雲郡の豪農勝部本右衛門や元藩士の高木権八という人物が、私財をなげうち、売却額を国に納める形で買い戻し、松江城の天守閣は解体の危機を脱しました。有志の人々に守られ、松江城の天守閣は現在まで保存されることとなりました。
松江城のはじまりは1611年
現在に残る松江城が落成したのは、1611年(慶長16年)のことです。松江城を建てたのは関ヶ原の戦いの戦功により出雲・隠岐を与えられた堀尾吉晴です。設計には軍学者の小瀬甫庵も携わりました。1607年(慶長12年)に松江城の建設を始め、落成が1611年(慶長16年)です。
1611年(慶長16年)の落成が判明したのは、松江神社で見つかった2枚の祈祷札(棟札)によります。2枚の祈祷札と地階の天守の柱に残った跡とが一致し、祈祷札が松江城の柱に掛かっていたことが証明されました。
松江城の築城には5年もの月日がかかりました。そのうち3年間を石垣の建設に費やしたのです。石垣は全体の6割が打ち込み接ぎ、その他は野面積みという方法で作られています。城の北側の野面積みや天守台や南には打ち込み接ぎが多く見られます。
松江城の石垣は、お城マニアも喜ぶ見どころです。高さ、規模ともに圧巻です。天守閣の北側にある水手門跡には、一旦積み終えた石垣の後に石垣を継ぎ足した痕跡もあります。