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宇和島城がある宇和島は、伊達家と深いかかわりがあります。伊達家といえば、宮城県にある仙台城を居城とした伊達政宗が有名です。そのため伊達家ゆかりの城というと仙台城の名が挙がりますが、宮城から遠く離れた愛媛の宇和島も伊達家ゆかりの城と呼ばれています。
愛媛の宇和島城と伊達家の歴史のはじまりは、伊達政宗の息子・伊達秀宗誕生までさかのぼります。伊達秀宗は、1591年(天正19年)に宮城県に合った村田城で生まれます。父は戦国武将の伊達政宗ですが、母は伊達政宗の側室でした。
ところが政宗の正室には跡取りとなる男子が生まれなかったため、側室の子である秀宗は周囲から「伊達家の家督相続人」として見られるようになります。
秀宗の運命が大きく変わったのは、3歳の時です。父・政宗に連れられ豊臣秀吉と謁見することになった秀宗は、秀吉への人質として差し出されることになり、そのまま秀吉の居城である伏見城に預けられます。
父母のいる仙台城から京都にある伏見城へ移ることになった秀宗ですが、その翌年に起きた秀次事件(謀反の疑いをかけられた豊臣秀次が切腹させられた事件)によって、さらに状況が変わります。
実は豊臣秀次と伊達政宗は親密な関係にあり、秀次事件の関係で豊臣秀吉から政宗の隠居と家督相続、さらに伊達家の伊予への国替えを命じられます。ただしこの命令には当時着々と力をつけていた徳川家康が仲裁に入り、政宗が秀吉に逆らわないという証文をたてたことで事態は収拾します。
問題は、その後の秀宗の過酷な運命です。3歳で秀吉に人質にとられた秀宗は、元服後も秀吉の人質のままでした。秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いのときには、伊達政宗対策として石田三成サイドの人質となります。
徳川家康が江戸幕府を開き、ようやく戦国時代が終わっても、秀宗の人質人生は続きます。今度は徳川家光への人質として差し出され、江戸に移されたのです。
さらにちょうどこの頃、伊達政宗の正室に長男・忠宗が生まれます。微妙な立場に追い込まれた秀宗ですが、弟である忠宗が当時の徳川将軍・秀忠の名から「忠」の字を賜ったことで、忠宗の伊達家相続が決定的となります。
長い人質生活を強いられた上に、長男であるにもかかわらず生まれ故郷の仙台藩を受け継ぐことができなかった秀宗は、父である政宗に恨みの念を抱えたまま大坂冬の陣に出陣します。
実はこのとき父・政宗も出陣しており、こっそりと息子をサポートしていました。そのかいもあって秀宗は無事に功績を挙げることができ、褒章として宇和島に10万石を拝領します。これによって伊達家は宇和島城に入り、秀宗は伊達家として宇和島藩初代藩主となるのです。
ただし父に対する積年の恨みと宇和島藩の苦しい財政、さらに本来であれば自らが引き継ぐはずだった仙台藩とことあるごとに比較される毎日に、秀宗はすっかり嫌になってしまいます。そして政宗が秀宗を勘当するきっかけとなる和霊騒動が起こります。
秀宗は騒動が起きたことを、父である政宗にも幕府にも報告しませんでした。その態度に激怒した政宗は、ときの老中に「伊達家が治める宇和島藩を返上したい」と申し入れ、それと同時に息子・秀宗を勘当します。
ただしこのときに政宗から申し出を受けた老中が、伊達親子の仲裁役となります。そのおかげで幼くして人質に出された秀宗は、久しぶりにあった父・政宗と腹を割って話し合いをします。ここでようやく親子のわだかまりが解け、政宗は秀宗の勘当をときます。
その後親子関係が劇的に改善した秀宗は、藩政にも積極的に取り組むようになり、徐々に財政も安定していきます。伊達家による宇和島藩の統治は幕末まで続きますが、その子孫にはのちに名君と呼ばれた伊達宗城も含まれます。
「伊達十万石の城下町」
大坂冬の陣の功績のおかげで幕府より宇和島に十万石を拝領した伊達家は、伊達政宗の長男を初代宇和島藩主とします。仙台藩を拠点とする伊達家なので、宇和島はあくまでも伊達家の分家です。
伊達家が宇和島の藩主となった当初、財政は非常に苦しく、本家である仙台藩とは比較にならないほどでした。それでも地道に藩政改革を進めることで徐々に財政は回復し、城下町は活気であふれるようになります。
いつしか宇和島の伊達家が本家と比較されることもなくなり、逆に「伊達十万石の城下町」として注目を集めるまでになります。そんな宇和島の街には、当時の名残が今も色濃く残っています。
政宗の側室が産んだ子・秀宗が入封した地が宇和島
宇和島城と伊達家との歴史からもわかるように、宇和島藩の初代藩主となったのは、政宗の側室の子・秀宗でした。宇和島城の藩主となったばかりの頃の秀宗は、父・政宗に対する怒りや恨みなどから、藩政にまったく力を入れようとしませんでした。
勘当のきっかけとなった和霊騒動の後もその感情は収まらず、仲介役となった老中の存在がなければ、親子2人きりでの対話も実現しなかったかもしれません。
ただ幸いにもこのときの親子の対話によって、秀宗は父に対する負の感情をすべて吐き出し、政宗は長年にわたる人質生活での息子の苦労を理解しすべてを許すことにしました。
伊達家の長男として秀宗が政宗の家督を継ぐことはありませんでしたが、勘当がとかれて以降の政宗・秀宗親子の関係は良好になります。秀宗はそれまでの黒歴史を払しょくするかのように藩政に励み、宇和島は伊達の分家として大きく発展していきます。