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上田城ってどんなお城?
長野県上田市を流れる千曲川の分流、尼ヶ淵に面した立地にたつ上田城は、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもありました。城の南側には千曲川が流れ、北側と西側には矢出沢川を引き込み、唯一の攻め口となりうる東側周辺にも蛭沢川や湿地帯などがあります。
関ヶ原の合戦後に徳川方に破壊されてしまった上田城ですが、後に信州小諸藩の仙石忠正によって再建され、当時は7基の櫓(やぐら)と、2基の櫓門が建てられていました。
しかし、明治維新後にほとんどが取り払われてしまい、1943年(昭和18年)から6年かけて再移築されています。そして1994年(平成4年)に東虎口櫓門も再建され、北櫓、南櫓も移築し、西櫓とともに当時の形のまま現存しています。
1583年に真田昌幸によって築城
上田を含む信濃の国では、当時、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が繰り広げられていました。その戦いので、真田氏は支配下にいた武田勝頼を甲州征伐で織田信長に滅ぼされてしまい、生き残った真田昌幸(真田幸村の父)は、徳川家康につくこととなりました。
大河ドラマ「真田丸」でも有名になった上田城は、信濃国小県の真田本城主である真田昌幸が当主だった1583年(天正11年)に、徳川家康の命を受け、上杉氏に対する徳川氏の最前線の基地として築城されたのです。
徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城
徳川家康の命で上田城を築城した真田昌幸ですが、天正壬午の乱の後処理を巡って徳川と対立します。1583年(大正13年)の第一次上田合戦では、徳川の7000の軍に責められながら、わずか2000という圧倒的に劣勢な軍を率いて、見事に勝利しています。
その後1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につき、連動している第二次上田合戦でも、石田三成率いるわずか2000~3000の少数軍勢で、徳川秀忠率いる38000もの大軍を迎え撃ち、上田城を守りました。
この二回の合戦で徳川を撃退したことから上田城は「難攻不落の城」として知られるようになりました。このように合戦が二回も行われた歴史のあるお城は、上田城以外にはあまり例がみられません。
「日本100名城」「日本の歴史公園100選」
「真田丸」で知名度が上がった上田城ですが、「財団法人日本城郭協会」によって、2006年にすでに「日本100名城」の1つに認定されています。
そもそも、「日本100名城」とは、前述の日本城郭協会が2007年に設立40周年を迎えるにあたり、その記念事業の一環として、2年前の2005年に「日本の名城」と言われている城郭を公募して、翌年の4月6日「城の日」に認定したものです。
また、城跡公園としては、同2006年に50年目を迎えた都市公園法の記念行事として、国土交通省が立ち上げた記念事業委員会で実施された「日本の歴史公園100選定事業」にも認定されています。
観光地としても広く世に知られているだけでなく、優れた歴史的、文化的資源を有している公園としても地域に貢献する城として選定されたのです。
上田城の見どころは?
そのような上田城には、当時のままに残っている門や、石垣、井戸など、見どころがたくさんあります。ここでは、その中から選りすぐりの見どころを詳しくご紹介しましょう。